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清算主義と自然淘汰説

メインブログで、人類の進化の歴史を書いているのだが、思うところがあって、取り急ぎこちらで書いておく。

…ところで昭和研究会でも森嶋通夫でも、これら亡国経済学にはひとつの前提があった。それは、日本がもう普通の景気対策では復活できない、日本は構造的な低迷の中に埋没しているという信念である。この構造的な問題を解消するために、亡国という厳しい環境の中で「日本人」をシバキあげれば、日本の成長が促されるという妄念に彼らはとりつかれていた。このような厳しい環境で国民をシバキあげることで、日本経済を復活させようという考えを、経済学では「清算主義」といっている。

出典:田中秀臣/亡国経済学の系譜/2012年9月15日/Real-Japan.org

正確な精算主義の説明についてはリンク先を見てもらうことにして、ここで注目すべきは《亡国という厳しい環境の中で「日本人」をシバキあげれば、日本の成長が促されるという妄念》だ。この清算主義は第二次世界大戦前に流行った経済思想なのだそうだが*1、その結果は悲惨な戦争だったことは知っての通りだ。ヨーロッパではヒトラーを生み、日本では戦争を礼賛するほど国民を狂わせた。

なぜこんな妄念を抱いてしまったのかを考えると私の頭では自然淘汰論しか思いつかない。清算主義論者のいうところの「亡国という厳しい環境の中」が淘汰圧(選択圧)で、この中で生き残った者が経済を発展させる新人類なのだろう。

われわれホモ・サピエンスは気候変動の淘汰圧に耐え抜いた系譜の生き残りである。ただし、この淘汰圧は恐ろしいほどの犠牲者(=淘汰された人類)がいたことを忘れてはならない。

清算論者は厳しい環境を進化のチャンスだと思っている。第二次大戦が終わり人類は少しは賢くなったかもしれない。これだけ見れば彼らの思惑通りかもしれないが、その思惑に犠牲者の数は勘定されているのだろうか。

そして直近の20年の日本経済。日銀や財務省、御用経済学者そしてほとんどの国会議員がこのシバキ主義にとりつかれていたし、今もとりつかれている。一説には「我々が日本企業を鍛えた」と発言した人がいたという。彼らはデフレの犠牲者を勘定していない。

さらに言えば、鍛えられたはずのデフレ型企業は、今やブラック企業として叩かれ、倒産するか体質を変えるかを迫られている。「失われた20年」を経験した後、何もいいことはなかったし、為政者たちは反省もしていないのでこれからもない。

「歴史は繰り返す」という言葉があるが、修正を加えるのなら、「賢者は良い歴史を繰り返し、愚者は悪い歴史を繰り返す」。まあビスマルクの言葉と一緒だな。