サブブログとハサミは使いよう

つるの剛士著『バカだけど日本のことを考えてみました』を読む

つるのさんの政治に対する考え方は賛同できるものだった。というか、普段私が思っていることと大部分重なっている。

つるのさんをネトウヨ呼ばわりする人達がいるが、以下に引用したように、彼の政治的姿勢・態度は一人の国民・有権者として「当たり前」である。

これらを当たり前で無いというのなら、納得のできる理由を提示してもらいたい。

(この本は大きく分けて、政治・マスコミ・子育て・その他に分けることができるが、この記事では政治の部分だけ絞って話を進める。)

右でも左でもない、「自分ファースト」であり「日本ファースト」

僕は自分のことを保守だとは思っていませんし、ましてや右翼だとも思っていません。

ただ日本で普通に生活して、その中で「当たり前」に現実の日本の問題を考えているだけです。その国で家族をもって暮らしている者として、一国民として、一納税者として。

なので、僕は特定の政治思想を支持しているつもりはありませんし、「保守政党だから」、「保守系の政治家だから」という理由で、選挙で一票を投じたこともありません。日本の将来のことをしっかりと考えてくれている、政策や主張が論理的で納得できる、それを実現する実行力もありそうだ――そう思えるような政治家の方なら、「右」でも「左」でも関係なく応援します。

p28

僕は「自分ファースト」ですし「家庭ファースト」です。そして、「地域ファースト」であり、「日本ファースト」でもあります。つまり、自分も家庭も愛しているし、そんな家族が住んでいる地域も愛しているし、自分が生まれた故郷も自分の国も愛しています。

そもそも「愛国」と言う言葉は、いわゆる保守・右翼系の専売特許ではないはずです。日本と言う国を愛しているからこその左翼活動だってないとおかしいと思います。

p30

全くもって当たり前の話だ。

つるの=ネトウヨと思ってる人たちは、日本のことを好きではないのだろうか。国益は全く国民の利益にならないと思っているのだろうか。

靖国参拝できないのはおかしい

靖国参拝」と言えば、よく外交問題で取り上げられます。

なぜ国を動かす立場になると、お墓参りに行くような感覚で靖国参拝ができないのでしょうか。

立場によってさまざまないけんがあるのはわかりますが、それでも僕は「国のために亡くなった人たちに対して敬意を払うことは、国民として、国家として、”当たり前”のことなのに、日本はなぜそれができないんだろう?」と疑問に思います。

アメリカのアーリントン国立墓地(アメリカの戦没者などが眠る国立墓地)に日本の国会議員の方が公式にお参りに行った時は、

「え? 他国のお墓参りはできるのに自国のお墓に行けないなんておかしいでしょ?」

と正直思いました。

公式参拝するな」と他国に言われ、首相をはじめ立場のある政治家は、毎年玉ぐし料だけ納めて参拝には行かない。なぜ先人の方々のお墓参りをするのに、そんなに他国の顔色を窺わなければいけないのでしょうか。国のために命を落とした人たちに敬意を払うことすら、「外交カード」に使われてできなくなってしまっています。亡くなった人たちに手を合わせるのは、人として当然のことなのに、なぜそんなところまで他国から干渉されなければならないのか・・・ ・・・。

p41-42

これも当たり前の話。

ただし、これを当たり前と思わない有権者が、残念ながらたくさんいるので、中韓の政治カードになってしまっている。

逆に言えば、大多数の国民がつるのさんのように当たり前のことを当たり前だと国外に向けて主張できるようになれば、政治カードなんかにならない。日本国民は他国の内政干渉に立ち向かうことは当たり前だと思う。

安全保障について

自分の家のことにたとえるならば、出かける時はやっぱり鍵も閉めなきゃいけないし、戸締りも頑丈にしなきゃいけない。いざという時に備えて警備会社と契約しておくのも選択肢の一つ。そういう防犯の備えはきっちりしておかないと安心して暮らせません。「大丈夫だよ。何も起こらないよ」と呑気に構えていたら、それこそ突然家に強盗が押し入ってくるかもしれない。一家の主としては、自分の家族を守るための備えはしっかりしておかなければいけないと考えるのが当然だと思います。

それなのに、国の防犯、つまり安全保障の話になると、その話自体しちゃいけないという空気が日本にはあります。僕はそれがおかしいと思います。

特に安全保障や憲法9条について語ると、なぜか「右寄りの人」とみなされてしまう。腫物に触れるような扱いになる。果ては「安全保障を語る人=戦争をしたい人」という極端なことを言い出す人までいる・・・ ・・・。

日本は第2次世界大戦で戦争体験をしたので、戦後の日本人が「戦争」に対して強烈な拒否反応を示すのも当然だと思います。

しかし、だからと言って、自国の安全保障の問題を軍国主義の復活と結びつける発想をしたり、「安全保障を語る人=戦争をしたい人」とレッテル貼りしたりしてしまうのは、やはりおかしいのではないでしょうか。

p56-57

北朝鮮みたいに実際にミサイルを撃ってくるような国や、中国のように日本の領海を犯してくるような国がなければ、今のままでもいいわけですし、戦争をしかけてくるような国が一つもなくて、全世界が本当に平和なのであれば、それに勝るものはありません。それは誰もが抱く理想の世界です。

世界平和の歌を歌って世界が平和になるのであれば、僕は声が枯れるまで歌い続けます。

しかし、残念ながら、現実は違います。

悲しいことに、人類の長い歴史はずっと争いの歴史です。

p68

どうだろう。当たり前のことではないか。

地球政府など無いのだから、外交はヤクザな世界だ。サロンに過ぎない国連に警察機能を期待するのは無理な話だ。

ヤクザな世界で安全に安心して生活するためには他国と渡り合える軍事力が必要だ。軍事力が足りないのなら外交・同盟その他でカバーしなければならない。

「お花畑」の人たちが言う話し合いだけでは、こちらに有利な決着を勝ち取ることはできない。

どうして米中露が膨大なコストを払って強大な軍事力を保持しているのか。軍事力≒発言力だがらだろう?

世間一般でも、力のない人に発言力など無いでしょ?

つるのさんをネトウヨ呼ばわりする人たち

彼のことをネットでは「ネトウヨ」などとレッテル貼りする人がいる。彼の批判者たちは安倍政権の政策になんでも反対するばかりで、実行可能な対案を提示できない人たちだ。

彼らはつるのさんを「ネトウヨ」だというが、私から見れば、つるのさんが普通なのであり、批判者たちの方が「ネトサヨ」で「平和ボケ」で「お花畑」な人たちなのだ。安倍政権を打倒しさえすれば、世の中が良くなると考えて対案も考えない「ネトサヨ」[以下略]なのだ。

まとめ:この本の意義について

上のようなことは当たり前だとは思うが、分かりやすい文章で簡潔にまとめられている。

ネトサヨはアタマのどこかがおかしいのでこの本を読んでも変わるとは思えないが、これから政治を知っていこうとする人たちには有益だと思う。